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祖母の半生  


14日から15日にかけて祖母の葬儀で福岡に行って参りました。
祖母は昨年末から正月にかけてこん睡状態に陥っていましたが、
正月明けには意識が戻り、父や叔母と会話が出来るほどに一時回復していました。
しかし、一週間後の三連休最終日の13日深夜にとうとう旅立ちました。
享年94歳の大往生でした。





小さい頃から私や弟は祖父母の戦時中の苦労や満州国での生活、祖母の青春時代の話などを、
繰り返し耳にタコが出来るほど聞かされていました。
葬儀の合間に親類で祖母の話で盛り上がりましたが、その中で叔母から改めて聞いた話を合わせて、
私が把握しているだけの祖母の半生を書いておこうと思います。






戦前の祖母は福岡市の中心部にある簡易保険局に勤務していました。
仕事の後は一日に二〜三本の映画をはしご鑑賞したり、
カフェー(祖母の言い方なのですが)でお茶を飲んだりと自由な生活を送っていたそうです。
また、歌うことが大好きな祖母は職場からもほど近い教会の
「コーラ・ステルラ」という合唱隊に所属しておりました。
そんな祖母には言い寄って来る男性の影もチラホラあったようで(本人談)
保険局の上司の告白を袖にしたこともあるそうです。
いずれにしても束の間の平和な時期に大いに独身時代を謳歌していたそうです。


日本が戦争に突入した頃、祖母が言うには「騙されて」、満州国で事業を興していた祖父に嫁ぎました。
当初は事務員としてスカウトされたようなニュアンスだったようです。
満州での生活は近所に住むロシア人たちとお互いの国の料理を教え合うなどの交流があったり、
気温が低いため納屋がそのまま冷蔵庫代わりで、一頭買いの牛の肉を吊るし、そこから削いで料理に使用するなど、
内地とは違った大陸特有のインターナショナルでワイルドな生活を送っていたようです。
そんな満州の地で父と叔父、叔母が生まれました。


敗戦色濃くなったころにはすでに祖父も招集されており、終戦時の引き揚げの際は、
当時27歳の祖母が単独で、三人の幼子を連れて新京から大連まで700km以上もの道のりを踏破し、
ソ連軍が次々と南下してくる大連で約一年間引揚船を待ったそうですが、
その間は何度も生命の危険に遭遇したそうです。
ロシア兵が家に強奪に来る時は、いつも父と叔父、叔母を床下に隠して、
銃を突きつけられながらもうまく渡り合い子供たちの命を守り通しました。
引揚時は多くの日本人が惨殺されたり、身包みはがされたりしたそうですが、
もしこの時に祖母の子供たちが命を失っていたら、私と二人の弟、従兄弟たちはこの世に生まれていませんでした。


大連から九州への引揚船の中で祖母たちは復員した祖父と再会したそうです。
博多に戻ってからの生活も、食料確保が困難で、何十キロもの米を遠方から担いで運んできたり、
相続問題の嫉妬から祖父の兄妹からのイジメがあったりなど、
独身時代とは正反対の苦労の時期が続いたそうです。





子供の頃は戦時中の話を繰り返し聞かされるのが正直なところうんざりでしたが、
今になって祖父母の体験や苦労を、そして当時は多くの方が同じような或はそれ以上の苦労をされた事を考えると、
もっと詳しく聞いて記録しておけばよかったとつくづく後悔します。
今の私たちの世代が同じ苦労を乗り越えることが出来るでしょうか。
デパートの食堂のハンバーグやナポリタンを食べて育った私には到底無理な気がします。





私たち孫世代が生まれた頃の高度成長期は、祖父の会社の経理を一手に引受け、
資金繰りなどの苦労はあったにせよ、祖母にとっては幸せな時期だったのではないかと思います。
国内はもちろんヨーロッパやアジアへたびたび旅行に行き、好きな着物などをいくつも買い求めていました。
私は幼い頃、祖母の着物や陶器の買い物にお供をした記憶があるのですが、
長時間あちこちの店を渡り歩き、脚は痛くなるし退屈で、呉服店の緋毛氈の上で駄々をこねたことを覚えています。


集金に来る業社の請求はもちろん、プライベートの買い物でも常に値切るしっかり者の祖母を見てきたので、
そんな祖母が呆けてきたことには全く気づいていませんでした。
祖母の入れるお茶は不味く、私が20代の頃、一度お茶を飲んで一時間後くらいに激しく嘔吐し、
その後下痢と発熱で苦しんだ事があるのですが、どうやら茶葉を何日も代えてなかったようです。
その事を祖母に訴えても「うちは何〜んともなか!」と言い張ります。
激動の時代に大陸で生活した祖母の胃袋はよほど強靭だったのでしょう。
関西に嫁いだ叔母が帰省する度に冷蔵庫の食料や、生ゴミが腐敗していたりして掃除することも度々あったようです。
また冷蔵庫内にすでに大量にあるにもかかわらず、牛乳や卵をさらに買ってきてしまうなどの行動を考えると、
その頃から少しづつ呆けが始まっていたのかもしれません。
しかし、安らかな祖母の死に顔を見ると、最後の五年間は父の献身的な介護と二匹のシーズー犬に囲まれて、
穏やかな毎日だったのではないかと思います。

昨年11月に老人ホームに祖母を見舞ったときに、「ここで友達はできた?」と聞くと、
「友達なんかおらん!」と言っていました。
超然としてどこか同年代の人と変わっていた祖母は、宗教や超自然現象を全く信じない人でした。
私は子供時代、そんな祖母に宇宙人や幽霊の存在を信じさせようと躍起になって証明をしていました。

葬祭場の待合室で、私の末弟が老人ホームに祖母を見舞ったときの様子をiPhoneで撮った動画を見せてくれました。
その中で祖母はドイツ語だかスペイン語だかよくわからない言語でなにやら歌っていました。
独身時代の合唱隊で歌った歌を思い出したのでしょう。
叔母いわく「少女がそのまま老人になったような人だった」という言葉をよく表した動画でした。



私にとっては偉大な哲人である祖父とともに超人である祖母。
いくら感謝してもしきれない二人です。

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コメント

NHKの前後編ドラマになりそうなおばあさまのお話・・・・・。
ご冥福をお祈り申し上げます。
戦時下のご苦労を考えるとこれだけ恵まれた生活をしながら「夫が気が利かない」とふくれていることが恥ずかしくなりますね。

Littlemama #- | URL
2014/01/18 22:23 | edit

Re: タイトルなし

Littlemama様

ありがとうございます。
子供のころわがままを言うとよく「恵まれた時代に生まれたんだから…」と怒られましたけど、
今になってやっと分かってきました。
祖父の体験談なども私にもっと文才があれば物語に出来るのに…と情けなく思います。
我々に比べるとあの時代の人はみんな超人ですね。

saginumaginu #- | URL
2014/01/19 13:47 | edit

お祖母様のご逝去 
ご冥福をお祈りいたします。

大変な時代を過ごされ、お疲れ様でしたの一言ですね。
変化していく時代をどうとらえていらしたのでしょう・・・

>「少女がそのまま老人になったような人だった」
さぞかし可愛いおばあちゃまだったのでしょうね。

女性としては、可愛いらしいおばあちゃんになりたいと思います。

遠方とあり、saginumaginuさんもお疲れになったことでしょう。
寒さも厳しいので、どうぞご自愛くださいね。

さなりん #m.2.LkcQ | URL
2014/01/19 20:23 | edit

Re: タイトルなし

さなりん様

ありがとうございます。
事情があって兄弟の中で私だけ祖父母の元で育ったので、
私にとっては母代わりの存在でした。
「佐賀のがばいばあちゃん」に少し似たところがありまして、
鮮度の落ちたものをよく食べさせられましたが、祖母は平気なのに、
私はよく食あたりを起こし参りました。

それにしても急なことで、妻を連れて行くのも一苦労でしたが、
弟たちの助力でなんとか行ってこれました。

saginumaginu #- | URL
2014/01/20 11:03 | edit

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